昨今のファンタジーTRPGでは、背景となる世界の要素の一つとして、「神」の存在が規定されている物が大半です。
そして、その設定の多くは「唯一神」ではなく、「多神教」であるとされている事が多いようです。
ですが、ここで現代人である我々にはちょっとおかしいな?と思うような背景設定があります。
それは、多くの神があり、それぞれに多くの信徒を持っている割には、宗教同士の深刻な対立という要素が欠けている、という部分です。
現実世界の歴史を振り返ると、宗教が違うという事はすなわち相手は邪教徒であるという事であり、宗教という全人類の幸福を求める者(宗教家・信徒)同士が血で血を洗う深刻な対立状態を長く続けてきた、という事は悲しくも歴然とした事実なのです。
では、何故、ファンタジーTRPGでは信仰する神同士で深刻な対立が起きないのでしょうか?
私が思うに、それは神は絶対神ではなく、人格神である、という理由からではないか、と思います。
TRPGにおける神の扱いのほとんどは、中世ヨーロッパ大陸で一般的であった絶対神(全知全能の神)とは異なり、むしろ古代ギリシア・ローマの神話である人格神(人間に近い感情を持った「強力な」「人間以上の」存在)である為ではないか、と思うのです。
なにせ、絶対神の存在する世界は基本的に完璧な物であり、神の関与しない超常現象は存在し得ないのです。
そして、全ては神の望んだ事ですから、神は余程の事がない限りは現世に奇跡を起こす事はありません。
(というよりも、そもそも奇跡が必要になるような状況を「発生させない」事ができる存在なのです)
これは、「魔法」や「怪物」の実在するファンタジー世界とは相容れない考え方なんですね。
しかし、神が人格神である場合はこれと異なります。
神といえども手に負えない事象は発生しますし、神自身も過ちを犯します。
また、一人の神が絶対である事ができませんから、神々は競って奇跡を起こし、自分の存在をアピールするようになります。
こちらの考え方だと、実にTRPGに向いている設定なんですね。
絶対神に仕える神官とは「生き方」の問題になるのに対し、人格真に仕える神官は「神に奇跡を起こして貰う事ができる存在」に過ぎないからです。
それを肯定するかのように、多くのTRPGでは人格神的な多神教の典型例である「一つの神話によって誕生した多神教」という形式で神の存在が定義されています。
そういった事を考えると、TRPGでは多くの神が並び立っているにも関わらず、深刻な対立が起きない、というのも頷けるかも知れませんね。