03.極論というスタンスの間違い

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 最初に書いておくけど、これは俺の個人的意見だからね。

 今回は、色々なサイトで見かける「極論」についての考察です。


 TRPGのサイトに限らず、インターネットのweb上では様々なジャンルの論議がなされているし、説明や解説なども数多く発表されている。

 そんなサイトを数多く覗いてきて(俺自身インターネット歴は短いんだけどさ)、とても気になる事がある。

 それは、文章のプロフェッショナル/アマチュアを問わず、「断定口調」と「極論」が非常に多い、という事だ。

 特に困った事に、数多くの論議では「極論」対「極論」という、とても不毛な論議が、しかも延々となされている事だ。

 これは、非常に困った問題だと思う。

 要するに、まともなバランスを持った意見という物が見えないからだ。


 対個人の会話テクニックの一つに、反論・反発を前提とした極論という物は確かにある。

 極論を言う事で相手に考えさせ、反論させる事は会話や論議の中では非常に重要な事だし、「極論」と「極論」を並べて論議させ、その中で一つのバランスを形成し、意見を「昇華」させると言うのは論議の一つのスタイルではあるだろう。

 しかし、これはあくまでも「会話」であり、あるいは「対話」である事が前提のテクニックなのだ。

 「会話」というのは基本的に一方通行ではない。従って、相手の反応を予測して、それを誘導するように「話」を展開していく事ができる。

 特に「対話」というのは1対1の会話であり、相手の反応や反論をほぼ確実に期待できる訳であるから、有効なテクニックである事は否めない。

 しかし、web上というのは、あくまでも「相手の顔の見えない世界」である事を忘れてはならない。

 実際に顔を合わせている場合、相手の反応を見る事が可能だろうし、場の雰囲気を作り上げる事で「反論させる/してもらう」事が可能だろう。

 だが、「相手の顔の見えない世界」ではそうはいかない。

 極論をタレ流し続ける者に対し、「顔の見えない来訪者」は反論などせず、ただ無言でその場を立ち去るだけなのだ。

 そして、その「顔の見えない来訪者」という存在は論議に参加している者には気づかれないまま、ただ数だけを増やしていくのだ。

 そして、その結果は見るまでもないだろう。

 気づけば、目先の論議に熱中して「害のある極論」をタレ流し続ける不良サイトが一つ増え、そしてその論議していたジャンルに対して「興味を失った」、あるいは「論議自体を駄目な物と考える」、決して戻ってこない数多くの来訪者が残るだけだ。


 更に、web上では気をつけなければならない事がある。

 それは、「web上での発言は文章である」という事だ。

 会話・話・声という物は、文章と比べると存在として軽いのだ。

 文章という物は、それだけで「それなりの説得力」を持つ物であるし、「文章」に望むスタンスによって、「受け取られ方」が異なってくる。

 例えば俺が、「XXって奴は最低だよ」と言ったとしよう。笑顔で。

 これは、俺がフザけているのがすぐに分かるし、大抵の人は俺とXXは知人である事、あるいは結構仲の良い関係である事を見抜くはずだ。

 しかし、これが文章だったらどうだろうか?

 「XXという奴は最低だ」という文章。

 これは、それだけでXXさんの人格を否定する物であり、XXさんを告発する物であり、そしてXXさんの名誉を毀損するものだ。決して何ら理由無しに許される物ではない。

 いや、理由があっても許される物ではないだろう。「最低だ」としている理由すら明確にしていない以上、告発ですらあり得ず、ただの名誉毀損を目的とした文章なのだから。


 「言葉」というのは、「話す(言葉として表現する)」「聞く(言葉として理解する)」で2つのステップで理解される物だ。

 それに対して、文章は「言葉として表現する」「書く」「読む」「言葉として理解する」という4つのステップを踏んで理解される。

 そのため、文章というのは本来的に「言葉・記憶の記録」の為にあるにも関わらず、誤解や勘違いの起きやすい記憶媒体なのだ。

 また、そのステップの多さから人には忌避されやすく、その為になおさら「格式張った」印象を与えがちでもある。

 そのために、「文章」という形で「極論」を行う事は、相手に反論をさせず、また「格式張って」いるためにそれなりの説得力を持ってしまう。

 いくら「極論」を並べる人であっても、それは意見の相対化を行わせる為であって、「極論」自体を「これが正しいのだ」と取って欲しい訳ではあるまい。

 それを考えると、web上での「極論」という物がいかに虚しいか、あるいは逆効果であるかがよく分かると思う。

 自分の意見を理解させるよりも、「極論」を言う事で「考え方自体」を理解して欲しいという気持ちはよく分かるし、その方が楽であるのも分かる。

 しかし、あえて「文章」という発表方法を使う以上は、「楽」をせず、誤解を招かないよう、ちゃんと考えた書き方をして欲しい。

 その上で、「自分はどうしてそう考えるのか」という、「自分の考え方」という物を組み込んで、「自分の意見」とその「正当性」を全面に押し出して欲しい。

 それによって、それを見た人も「正当に」考える事ができるのだろうし、文字数・ページ数という制約のある商業的文章とは違い、商業的な制約がないインターネットだからこそ、それができるのだから。


P.S.

 この文章はあえて「断定的」に書いてみました。

 この様に書くと、なんとなく威圧感があり、「無理矢理納得させられる」という事がよくわかるのではないでしょうか?

 ちなみに、俺自身はこの意見は「俺なりに正しい」と考えてます。

この記事を書いた人 Wrote this article

如月翔也

 如月翔也です。TPGとアナログゲーム、PCが大好きな中年男です。このブログでTPGについて色々触れています。コメントを貰うと非常に喜ぶのでお気軽にコメントをお願いします。