02.キャラクタープレイ〜無意味な、あるいは有害な議論

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 最初に書いておくけど、これは俺の個人的意見だからね。

 今回はWeb上のTRPG論では結構有名(?)な、キャラクタープレイについての議論への意見です。


 古今東西、あちこちの個人的な発表の場(要するにインターネットのホームページだ)において、「TRPGにとって、キャラクタープレイは必要か否か」という内容が発表されている。

 これは端的に言うと、「キャラクタープレイは良いのか、悪いのか」という内容について書かれている訳だ。

 しかし、あえてここ(Dark Side)で書かせて貰うならば、これは実に無意味な議論だと思う。いや、むしろ有害であると言ってもいいだろうか。

 それは結局、これらの意見の発表(いや、むしろ相手を名指ししない匿名の議論とでも言うべきだろう)は、「私はキャラクタープレイが好きです。だから認めて下さい」あるいは「私はキャラクタープレイが嫌いです。だからやめて下さい」と言っているだけに過ぎないからだ。


 キャラクタープレイ容認(あるいは推奨)派の意見は、大体こんな感じだ。

 「キャラクタープレイによってキャラクターへの感情移入が深まり、より強くTRPGを楽しめる

 「TRPGとはキャラクターを演じる遊びだから、キャラクタープレイは必須だ」

 「キャラクタープレイをする方がノリがよく、従って楽しめる

 これらの意見は一見正しく見えるかも知れない。

 しかし、これらの意見はあくまで「(私は)楽しめる」か「(私にとっては)演じる遊び」という主観に基づいた意見であって、結局は「だって、俺はそれが好きなんだから、認めて欲しいじゃないか」という事だ。

 確かにTRPGでは「キャラクターを演じる」という一面はあるが、これらの意見ではTRPGの他の側面には触れていないのだ。


 キャラクタープレイ否定(あるいは撲滅)派の意見は、大体こんな感じだ。

 「キャラクタープレイによってゲームの他の側面が阻害される

 「キャラクタープレイは自己満足に過ぎない

 「ノリだけが全てではない

 これらも、説得力十分の素晴らしいセリフに聞こえるだろう。

 しかし、これらの意見もあくまで「私は楽しめなかった」という主観に基づいたものであり、「だって、俺はついていけないんだ、だからなくしてしまおう」という事な訳だ。

 確かに、TRPGには「キャラクターを演じる」以外の側面も多いが、キャラクターを演じるという要素を無視して良いと言う訳ではないし、ノれない遊びなど、たかが知れているだろう。


 結局、キャラクタープレイ容認派と否定派の対立は「この方がたのしいからイイじゃん」対「俺は楽しめないんだよ!」という、実にレベルの低い議論に過ぎない。

 また、このような議論の中で、自分の正当性を高める為に「商業的に言えば」や「文学・物語的に言えば」等の様々な関係ない知識を織り込んでいる意見も見かけられるが、これもやはり無意味で低レベルである事は否めまい。

 たかが遊びに「商業」も「文学」も「物語」も関係あるまい。

 そうでなければ、一番売れたRPGである「ドラクエ」こそがRPGの「最も正しい姿」になってしまうだろうし、あるいは「文学賞」を貰う事のないTRPGなど全てクズであるという事になる。

 いや、もしかしたら「商業」「文学」「物語」を持ち出す人達は実はドラクエ信者(あるいはアンチTRPGイスト)であり、「RPG=ドラクエ」(あるいはTRPG=クズ)と読んで欲しくてそのように書いているのかも知れないが。


 そもそも、「遊び」に正しい、正しくないと言う論を求める方が無茶なのではないだろうか?

 少なくとも、俺にはナンセンスに思える。

 将棋というのは、正しい遊びなのだろうか?

 では、チェスはどうだ?

 じゃんけんは?

 鬼ごっこは?

 シューティングゲームは?

 …馬鹿馬鹿しい事この上ない。

 せいぜい無理に「正しい」「正しくない」をつけるとしたら、「過保護で排他的なPTA」的な意見しかあるまい。

 「将棋、チェスは元々は兵士達が戦っている姿を抽象化した物です。

 だから、こんな戦争を推奨するような遊びは正しくなく、子供には勧められません」

 「グー(石)はチョキ(ハサミ)を刃こぼれさせ、チョキ(ハサミ)はパー(紙)を切ります。

 しかし、パー(紙)はグー(石)を包むだけで、勝っていません。

 こんな矛盾に満ちた遊びは正しくありません。こんな遊びは子供には勧められません」

 「鬼ごっこでは、鬼でない子供は鬼から逃げます。

 鬼になった子供はそれによって疎外感、孤独感を感じる事となり、それによって人格の形成に大きなマイナス要因を受ける事になります。

 また、タッチすると言う事はすなわち”相手が嫌がる事をする”訳ですから、情緒教育にも良くありません。

 学校での鬼ごっこは先生がやめさせるべきです」

 「シューティングゲームはビジュアル化された破壊の映像であり、仮想空間に置いて破壊を体験する事で子供は凶暴な闘争本能を養ってしまいます。

 ですから、全てのシューティングゲームは18才未満禁止の制限を受けるべきです」

 こんな意見に、耳を傾ける人がいるのか?

 いたとしたら、その人の存在自体がナンセンスだと思う。


 「遊び」に対する意見というのは、「こうやったら、より楽しいんじゃないかな?」というのがせいぜいだと思う。

 鬼ごっこという遊びに「高さ」という概念・制限を加えると、「たかたか鬼」になる。これは見事な発想だし、見事な発展だ。

 それに対して、「それは鬼ごっこの本来的な遊び方と違う」と難癖をつける事が、どれほど馬鹿らしい事か。

 その難癖に対して、「高さを加える事の意味と重要性」で反論する事の、どれほど虚しい事か。

 「たかたか鬼」が嫌ならば、違う友達を「鬼ごっこ」をするなり、今度は制限を広げて「こおり鬼」をすれば良い。

 これが、「棲み分け」という物だろう。

 遊びに限らず、一般化・肥大化したジャンルという物は必ず細分化して「棲み分け」を行うか、もしくは細分化した物同士で潰しあって最終的には消滅して行くというのは今までにいくらでもあった例だろう。

 その例から考えれば、「キャラクタープレイは正しいのか?」という意見を掲げ、互いに潰しあう事は最終的には「TRPG」というジャンル自体を消滅させて行っている事と大差ないだろう。

 その前に、「俺の方が正しいんだ!」と絶叫する様な真似の、どこに意味があるのだろうか?


 サッカーにおいて、「攻撃と防御、どっちがサッカーとして正しいか?」などという議論は存在し得るだろうか?

 「この場面においては攻撃すべき」という議論は成り立つが、「サッカー」というゲーム/ルールに対しては成り立ち得ない議論だろう。

 それは、「攻撃」も「防御」もあるいは「チームワーク」も「監督の裁量」も、全てサッカーの要素であり、従って欠かせない物だからだ。

 それに対して、「キャラクタープレイ」は明らかに現在のTRPGにおいては1つの要素である。

 しかし、「キャラクタープレイはTRPGとして正しいのか否か」という議論があるのは、明らかにおかしい事なのではないだろうか?

 結局、「俺はサッカーでは攻撃が好きだな」「いやぁ、防御こそがサッカーの基本だよ」という会話を、もっとレベルを落とした段階でやっているに過ぎないのだ。

 サッカーの話をする人は「攻撃も防御もサッカーだ」とわかっていて、その上で「俺はこっちが好きだな」と言っているのに対して、TRPGは「キャラクタープレイはTRPGか?」という大前提の所を真剣に議論しているのだから。


 そもそも、「キャラクタープレイ」に関しては、本来的にはバランスの問題なのだ。

 なさ過ぎるとシミュレーション、あり過ぎると演劇、というバランスの中で、かつ自分たちの所属する集団の中で、どこまでキャラクタープレイの比重を増やすか(あるいは減らすか)という点が問題なのであって、それを全体的に通用させようと言う方がどうかしている。

 人は千差万別であり、その人の集まりである1つの集団も、千差万別の個性があるのだから、その集団によって「楽しい」と思えるバランスが異なるのは当然だろう。

 「鬼ごっこの全世界的セオリー」など、誰が作ろうというのだろうか?

 そんな物は必要あるまい。

 自分たちが「遊ぶ」範囲で、それなりのルールを作ればいいし、それによってそれなりのセオリーが生まれてくる物だろう。

 そう言う意味で、俺はこの系統の論議は全て無意味であるばかりか有害である、と思う。

 そんな事を論議する前に、「人に迷惑をかけない」「自分がやられて嫌な事はしない」「自分のいいと思う物でも他人に押しつけない」という事をピックアップするべきだろう。

 それがちゃんと全員にわかっていれば、無理なキャラクタープレイの強制も無くなるはずだし、キャラクタープレイの強制排除という物もなくなるはずだ。

 「遊び」だろうが何だろうが、我々の大半は大人なのだろう?

 だとしたら、皆がちょっとずつ我慢する事がどれだけ大事な事か、あるいはそれによって全員がどれだけの恩恵に預かれるかを知っていなければならないはずだ。

 そして、それを知っていれば、「キャラクタープレイ云々」の論議など、存在しているはずはないのだ。

 これはすなわち、TRPGをやっている人は普通ではない、という事を肯定している事になる。

 それでいいのだろうか?

 俺はそうは思わない。


 皆も、もうちょっと節度を持ってTRPGを楽しんで欲しい。

 TRPGは1人でするものではない。むしろ、趣味でするサッカーのように「全員」でするものなのだ。

 それはすなわち、「全員で楽しむ」ものであり、同時に「皆がちょっとずつ遠慮する」事が必要なのだから。

この記事を書いた人 Wrote this article

如月翔也

 如月翔也です。TPGとアナログゲーム、PCが大好きな中年男です。このブログでTPGについて色々触れています。コメントを貰うと非常に喜ぶのでお気軽にコメントをお願いします。