最初に書いておくけど、これは俺の個人的意見だからね。
今回は、TRPGと一般生活、どっちにも言えるお話。
このネタ自体、TRPGよもやま話でもDark Sideでも取り扱っているけど、直接的ではなかったし、「俺論」はブチかましてなかったからね。
丁度いいから、「俺毒」の薄〜いヤツ、いっとく?
え〜。今回はいつもとは逆で。
このタイトルを見て、うわ〜、嫌な感じ〜と思った方。
そんな貴方の為に書いた文章です。
是非、読んで下さい!
それでも絶対に読みたくないと言う貴方。
先に言っておきますけど、下の「帰る!」をクリックしても、帰れませんよ?(笑)
まあ、諦めて一読して、それから今の内容を忘れるなり、思い出して腹ワタ煮えくり返る思いをしたりして下さいな。
こんなタイトルの文章でも読んで下さる方は、下の「いえいえ、読みますよん☆」をクリックして下さいね。
おっと、いつも通りの事ですが、応援、感想のメールやBBSへの書き込みは大歓迎です。
が、いつも通り、「オマエはコロス」系のメールやBBSへの書き込みは不許可です。
マジで報復しますよ、俺は。
なにせ、そういう男ですから(笑)
うわッ、コレ、超〜感じ悪ッ!帰るッ!
まあ、上の文章ほどはひどい書き方はしていませんから、読んで行って下さいね?
本当に、凄く真面目に考えたんですよ。毒も薄いと思いますし。
最近はDark Sideでも言いたい放題言える様になってきましたんで、今回はある意味TRPG最大のタブーであるところの「自由と常識」についてお話ししましょう。
現在の所、人間は、基本的に「自由」が保証されています。
「現在の所」というのは、すなわちそうじゃなくなる事もあるので、このような書き方にしているのですが…本来的に、人間は「自由」でも「平等」でもないですからねぇ…(苦笑)
建前とはいえ、現在の「人間は自由で平等である」というのは、本当は素晴らしい事なんですよね。
まあ、それをこれからどうしていくかによって、それが建前で終わるのか、建前すら無くなるのか、それとも「社会的な事実になる」のかは変わっていくのでしょうけど…ま、多くは語りますまい。
少なくとも、新年(新世紀)にはふさわしくない結論を導き出せそうなので。
人間は「自由でも平等でもない」という事についてちょっとだけ書きますと…
人間、生まれてくる場所も環境も選べません。
しかし、生まれてくる場所、環境によって、その人の人生は変わります。これでは、人生は平等じゃないですね。
人間、生まれつきの「才能」「能力」という物が確かに存在します。
従って、全ての能力が一線に並ぶ事はありません。これでは、能力も平等じゃないですね。
ついでに、人間は他の人間との関わり合いによって生きています。従って、全ての行動は自分自身だけで決定できる物ではなく、あるいは何かに影響されて決定している可能性もあり得ます。
従って、人間は自由じゃないんですね。
まあ、これは悲観的な物の見方ですから、あまり警戒しないで読み進んで下さい。
さて、一般的に「自由」という言葉の意味を考えると、こういった意味合いだと思いませんか?
・束縛されない
・何をしても許される
・勝手にしても良い
確かに、「完全な自由」というのはそう言った概念なのかも知れません…
しかし、先程書きましたように、人間は本来的に「平等」でも「自由」でもないんですよね。
そんな人間が、「完全な自由」を手に入れる事は不可能です。
人間は生きている以上、なんらかの個別化がされますし、なんらかの束縛を受けるからです。
しかし、それでも人間は「自由」を欲しますよね?
そして、その「自由」をある程度のレベルで与える為にこそ、「法律」や「常識」があるのです。
人間は基本的に「他の人間」との関連・関係の中で生きています。
そして、それを総合したモノ、全ての「自分」と全ての「他の人」を縫合したモノが、社会という訳です。
ですから、偉い学者さんがしたり顔で「人間は社会の生物である」なんて言っているのは正しいんですね。
そして、社会で生きて行くには、法律と常識という2つの概念に縛られなければなりません。
なぜなら、法律や常識という物は、大多数の人間が「それは駄目だ」と考えている物であり、それに従わないと大多数の人間の気分・心証を害してしまい、結果として大多数の人間(すなわち社会)からつまはじきにされ、社会に存在できなくなってしまうからです。
そして、法律や常識というのは、その裏返しとして、「自分」に対する気分・心証への損害を未然に食い止める為に存在するものでもあります。
法律や常識がある事によって、もしかしたら「自分」が被るかも知れなかった犯罪や非常識を、「社会に存在できなくなる」という暗黙の鎖がつなぎ止め、「自分」へと届かなくしている事も数多くあるのです。
その相互関係によって、「社会」と「法律」「常識」というのは互いを補完し、社会に存在する人間達を上手く繋ぎ合わせているのです。
そう、「法律」「常識」というのは一見「自由」を阻害するものに見えますが、実際にはそうではなく、「自由に行動した結果、社会に適応できなくなる事」を防ぐ為に存在しているという一面があるのです。
ですから、「法律」「常識」というのは完全に「自由」の対局にあるものではありません。
さて、ここまで長々と「自由」「法律」「常識」について、違う視点から考えてみました。
そこで、短いながらも本題に入りましょう。
この文章のタイトルは「自由よりも常識だろッ!」ですよね?
これは…そういう事なのです。
大抵の人間は、「法律」を破る事によって受けなければならない「処罰」を恐れて、法律を破る(=犯罪を行う)事はしません。
しかし、「常識」というのは、目に見える「処罰」がありませんから、往々にして破られがちなんですよね。
特に、「犯罪に対する処罰」に対しては「自由の損害である」という意見はない(あるいは殆ど存在しない)のに対して、「常識」に対しては「自由の損害である」と考える、あるいは語る人間は決して少なくはないのです。
しかし、です。
先にも書いたように、「法律」「常識」を破ることに対する本来的な処罰とは、社会に存在できなくなる事なんですね。
しかも、この処罰は意識的に行われる物ではなく、周囲の人間達が無意識的に行った結果、そうなるという類の物です。ですから、これに対する対応方法なんてまず存在し得ません。
さらに、「犯罪」は、それに対する「処罰」を受けた者に対しては「既に償いを終えている」という判断ができ、受け入れられる事もあり得る反面、非常識に関しては「処罰」が無く、「既に償いを終えている」と判断して貰える事が難しく、結果として受け入れられない可能性は高いと言わざるを得ないのです。
この点を考えると、「自由」と引き替えに捨てるには、「常識」というモノ、それに対する制裁というのはあまりにも重すぎますよね。
しかし、これはある意味当然の事なのです。
なぜならば、「自由」に行動する事で他人を不愉快にさせるのは、数多くの他人が「気分を害されない自由」を蹂躙している事に他ならず、「自由に行動した人」は何も損害されていないにも関わらず他の人間は酷い損害を被っている訳ですから。
言い換えれば、何の罪もない数多くの他人を自分のわがままによって犠牲にしたという事なのですから。
どうでしょう…それでも、薄っぺらな「自由」を追い求めますか?
それとも、「他人に迷惑をかけない」という大前提の元、「許される自由」を満喫しますか?
それを選ぶのは、貴方であり、貴方のキャラクターです。
しかし、選んで行動する以上、その責任はずっとついて来ますよ..?